きみのち 28




立花くんのコックコートが届いたと聴いたのは、もう桜も散って三月も終わるという時期だった。

「届いたんですっけ」
「うん。写真見る?」

相も変わらず休憩所で話していると、設楽さんがいつの間に機種変をしたのかスマフォを取り出してアルバムを開く。

「あるんですか」
「残念ながら、着てる状態は撮らせてくれなかったけどね」

さもありなん。

「絶対に似合いますよねー。白い服にあの赤い髪」

想像するだけで、少しにまにましてしまいそうになる。すらっとした体躯だから、立花くんはとても白が似合うと思うのだけれど、好きじゃないのか白い私服姿はほとんど見たことが無い。

「うん、似合ってたよ」
「羨ましいです。一回ぐらい見たい……」

すると目当ての写真が見つかったのか、端末を渡されてきたので、少しおそるおそる受け取った。デジ物好きだけどやっぱ人様のはこわいなぁ。

画面の中には、立花くんが顔を隠すようにコックコート一式を手にしていた。確かに写真が嫌いなイメージだから、少し笑ってしまう。

「エプロンのリボン結びが、ちょっと苦手みたいだけど」

リボン結び苦手って……意外なところに弱点が。かわいいなぁ。

「あれ、でも、いつもバンダナマスクつけてるのにですか?」
「マスクは固結びだから」

なるほど。

「いやー、でも本当、感慨深い」
「最近何かにつけてそれ言いますね」
「わからない?」
「いえ、わかります」

あんなにいろんなことに消極的だった立花くんが、自らやりたいと言って『食の東大』とまで言われる食専調理学部に見事合格したのだから、これで感慨を覚えない筈がない。

「入学式、もう来週ですよね」
「そう、四月四日の水曜日」

そう表情を崩す設楽さんは本当に嬉しそう。入学式、二人のために平穏で素敵な日になりますように。







「あれ」
「え?」
「何でここにいるの」

食専の入学式ちょっと前の、三月末日。

非番の日、モノレールでちょっと見るだけに終わってしまった食専に来てみたら、偶然にも立花くんに見つかった。何だろうこの展開。

立花くんは手に書類らしき封筒を持っているから、もしかしたら何かの申請書類を受け取りに来たのか、出しに来たのか、たぶんそんなところだろう。

「……オープンキャンパスで、ツアー参加し損ねたから……」

食堂棟は常時一般開放されていて、学部棟もある程度の場所までなら一般人でも入場を許可されている、とホームページに書いてあるのを見つけた私が来ないでいられるだろうか。

恥ずかしくて視線を逸らしていると、くっ、と何かに耐える音がして思わず見る。するとどうだろう、立花くんが口元に手を当てている。あ、これ完全に笑ってる。

「佐々さんらしい」
「わ、笑ってもいいけどもうちょっと隠してよー」
「嫌?」
「……嫌では、ないけど」

抗議のためにちょっと上げてみた拳は、へなへなと力が抜ける。絶対に立花くんって設楽さんの影響確実に受けてるよね。この天然な感じが特に……。まぁ十年以上一緒にいて影響受けない方がおかしいか。

「で、見て回るの」
「うん。普段も一般開放してるところ多いみたいだしね」

食堂棟とかのパンフレットを開いてみると、細長い指が紙面を滑った。

「こことここは殺したくなるからお勧めしない。2Fのここはマシ。4F辺りはわりと食べてもいいラインが多かった」

立花くんって時々、言葉遣いが物騒になるけど、これってどこで誰に似たんだろう。

「って、この数を食べたの?」
「匂いでわかる」

事もなげに立花くんがそういうので、そういえばそうだった、と思い知らされる。バンダナマスクも色んなことに敏いことも、なにもかもが当たり前になっていた。

「驚いてる」

すん、と嗅がれるから、また恥ずかしさを覚えた直後、自分の口元が尖るのが分かる。

「いいな」
「え」
「立花くんは私のことわかるのに、私は立花くんのこと何にもわからない」

言っても仕方のない話だし、情報のフェイズがまるで違うことは理解しているけれど、それでも羨ましいという気持ちは消えない。

「……佐々さんって、結構俺のこと知ってると思うよ」
「そうかな」
「たぶんね」

私の疑問に対して、曖昧な答えで肩を竦める。そこははっきりと肯定してくれたらいいのに、でもそうじゃないから彼らしい答えなんだろう。

「ならいっか」

私が笑うと、ほんの少しだけど彼もマスクの下で笑ってくれる。
こんな日がずっと続いていったら、どれだけいいのだろう。




「これからどこかに行くの?」
「用事は終わった」

封筒を持ち上げてそう言うので、どうやら書類を受け取りに来たのは当たってたようだ。

「そっか、じゃあ……案内とか」
「めんどい」

言った瞬間にきっぱりはっきりしてる返事が返ってきて清々しい。

「だよねー……。なら一人で食堂巡りしようかなー」

言いながら食堂棟マップを見下ろしていたら、それが立花くんによって奪われる。お、お、ちょっと、それが無いと私わからないんだけど。

「なーんちゃって」
「……」

またわかりにくいボケを!、と思わないではなかったけれど、立花くんが楽しそうにしてるからまぁいか。案内してくれるって言うのなら甘えてみよう。

学食棟はまた今度来ることもできるし、と別にもらった学部マップを広げて相談しようとしたところで、どこからか方向性のある声が聴こえた。

「け、い?」

今度ははっきりと細い女性の声が聴こえ、私たちは二人揃ってそちらに視線を向ける。赤みがかり、ウェーブが乗った髪の毛。どこか既視感のあるそれに、私の利き手が反射的に反応するのが分かった。

つまり敵だと、本能が警鐘を鳴らす。

それは、今までのすべてを浚い、流し、壊すものだった。
私はこの時、決して振り向くべきではなかったのだ。

「……」
「あぁ、その髪の色。やっぱり京ね」

立花くんに対して親しげに話しかけ、嬉しそうに涙を浮かべてその女性は近寄ってくる。どくりと心臓が跳ね、私はその女性と立花くんの間に割って入るように腕を伸ばした。

「どちらさま、でしょうか?」

わかってる、私は。この女性が誰か、理解している。それでもそれを認めたくはないし、勝手に結論付けていいものじゃない。杞憂であれば、それに越したことはないのだから。

「貴方は?」
「私は、……彼の保護者のようなもの、ですが」

私が彼の前に立ちはだかると、訝しげに、値踏みをするようにその女性は私のことを睨んできた。

「そう、彼女とかって言うわけじゃないの。あのね、あなた立花 京でしょう?」

言いながら私から視線を飛ばして隣へ。そしてそう、女性はねっとりとぬめつくような声で――――いや、これは私の主観が入っているだろう。……嫌な主観だ。――――立花くんの名前を確かにフルネームで呼んだ。

「いきなりごめんなさい。京、お母さんよ」

そうして、驚くほどに厚顔無恥で、最悪なことを言い放った。

「あの頃は私が弱かったせいであなたのことを捨ててしまったけど、本当はもう一度やり直したいの」

単語一つ一つにふつふつと私の逆鱗が刺激される。自分が彼に何をしでかしたのか、全く覚えていないわけじゃないだろう!

「お、れは」

掠れた声が聴こえ、反射的に立花くんの手を掴んだ。大丈夫。私は味方だから。傍にいるから。一人で戦おうとしなくていい。

必死に立花くんの調書を頭の中から検索する。思い出せ。あそこに何が書いてあったかぐらい、私なら覚えてるだろう。

「すみません、そう言う話は警察……施設等を通してからにしていただけませんか? 貴方が本当に彼の母親であると名乗るのならば、私は出るところに出なければならなくなります」
「あら、何それ。知らないんだけど」

しかし動じた様子もなく、不遜に返答され、余計に神経を逆撫でされるのがわかった。駄目だ、憎悪や怒りに身を任せたら守れるものも守れない。

「……彼はただいま保護された状態であり、あなたは刑法218条に抵触するものと」

一呼吸置いてからそう捲し立てようとしたところで、繋いだ手を引っ張られた。

「いい、もういい。……佐々さん、もういいから」
「でも……たち、ばなくん」

名前を出すのは躊躇われた。けれど、名前を呼ばなければどこかに消えてしまいそうな表情だったと言うのも、事実なのだ。マスクと前髪の奥に隠れている肌が酷く青褪めている。

「いい。いいんだ」
「本人が、そう言うのなら……良いけど」

さすがに当事者たる彼の意見を無視してまで、事を構えるような度胸は私にはない。設楽さんならこういう時、どうしただろう。

「……じゃあ、そういうことで」
「あ、ちょっと待って」

引き留められ軽く立ち止まると、彼女はメモ用紙らしきものに何かを書きつけていた。そしてそれを私の眼前に突きつけてきたのだ。記されているのは携帯電話番号とメールアドレス。

「これ、私の連絡先。何か話すことがあるって言うんなら? 一応、渡しておくから」
「……お気遣い、痛み入ります」

そう返答するとき、声は荒れていなかっただろうか。それを受け取りコートのポケットの中に入れて、私は立花くんの手を握り返してその場を去った。

なんだろう。なんだろう。なんだろう。凄く嫌な感じがする。
隣で歩く立花くんの足がどこかおぼつかない。

あぁ、嫌だ。嫌だ。嫌だ。こんな目に遭わせるために私は今ここにいるんじゃないのに。おかしいと思っているのに、それでも私には介入する権利がない。権利や対処法を確実に持って知っているのは、設楽さんしかいないのだ。

「立花くん、大丈夫……じゃないね。顔真っ青だよ」
「え……いや、平気、だから」

私はどうしてもその言葉を信用しきれなくて、その辺に走っている流しのタクシーに手を上げる。すると直ぐに掴まり、開いたドアへふらつく彼の背中を押した。立花くんはどうも億劫そうだったけれど、抗うのも面倒だと思ってくれたのか大人しく一緒に入ってくれる。

「すみません。向かってもらいたい場所が二ヶ所あるんです」

そう前置きをして私は設楽さんのマンションの住所を告げ、勤務する警察署の名前を言った。これは設楽さんに伝えなければならないことだ。

「うーん、警察署に行く方が近いから、そっちに先に行くけどそれで大丈夫?」
「いえ、出来ればマンションの方を先にして頂きたいです」

言われると思っていたので、容易していた言葉を返す。

「あー、そこの彼、具合悪いの?」
「えぇと、そうなんです。そのために彼を届けてから、ちょっと用事のある警察署の方に、ということで」
「なるほどね。遠回りになるけど、そっちの方がいいって言うんならそれで行くよ」
「ありがとうございます」

そうしてタクシーは動きだす。マンションへ向かう道すがら、立花くんは私の肩に凭れ掛かるだけで何も言葉を発しなかった。彼との無言がこんなに辛いことなんてなかったのに。

どうしようもない、どうにも出来ない立場だというのは元より理解していたにも関わらず、私は無力感を覚えざるを得なかった。

ふれた手は、冷たい。







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