わたしが話しかけたのは、ひどい人の筈でした。
りゆうがないのに、すっぱい
「おはよう」
家の最寄駅のホームで電車を待っている時にそう挨拶してきた彼女の足を覆うスカートは、衣替えがあったらしく生地が分厚くなっていた。
「立花君って食専の人なんだよね」
「……一応」
今でも相変わらず相手からはスパイスの香りが漂ってくる。
「じゃあ、毎日いろんな料理作ってるんだ?」
「毎日実習があるわけじゃないけどね」
「そうなんだ。調理学校って毎日料理作ってるんだと思ってた」
とんだ偏見と言うか思い込みだ。
「栄養学とか食品衛生学とかもそれなりに」
「へぇ、大変なんだね。でもそれが苦じゃないぐらいには料理好きなんでしょ。食専に入れるってことは技術も凄いんだろうし」
どうしてどいつもこいつも調理学校に通ってたら料理が好きだって考えるのか。それこそ偏見甚だしい……わけでもないか。周りを見てみれば大体、料理全般とは言わずとも何かに妙な執着心とかこだわりを持ってる奴らばっかりだ。
「さぁ、どうだろう。技術はともかく、俺料理嫌いだし」
そこで、隣に立つ彼女の気配が若干張り詰めた。何を踏み抜いたのかわからないけれど、どうやら怒っているみたいだ。
「嫌い、なんだ」
「うん」
幾分かトーンの落ちた声にとりあえず頷いておく。だけど相手が怒っているからって謝罪する理由もない。俺に非があるのかどうかもわからないんだから。
そこで電車が到着して二人で乗り込んで、向かい扉の角が開いていたからそこに足を進めて俺は吊り革を、千佳はポールを掴んだ。
「羨ましいな、それでも食専に合格できるスキルがあるんだから」
そう呟かれる言葉と一緒に、悲しいっていう感情がぽろぽろ落ちていく。俺がいつの間にかどこかに置いてきたものだ。
「……もしかして、食専落ちた人?」
そう言うと、鳩が豆鉄砲を受けたみたいな顔が俺の方に向いた。そんな表情をさせる言葉だったかな。
「えっ、あー、そう……では、ないよ」
驚いた表情のまましどろもどろと反応を返す彼女の言葉に嘘はない。
「ただ、ちょっと思うところがあってね。ごめん、口調強かった?」
食専になにか縁があったりするんだろうか。とりあえず気まずそうに肩を竦める彼女自身の問題らしいことは判明した。
「別に」
「そんなことより、食専って普段何やってるのかもっと教えてよ」
雰囲気を払拭したいんだろう笑いを受けて、面倒、とだけ一言落としたら、立花君は面倒臭がり屋だなぁ、なんてまるで前から俺のことを知っているかのように相手は苦笑する。
「会話したいだけならそっちが話せば」
「えっ? うーん、食専の話が訊きたいし、それにうちの学校食専みたいに面白いことやってるわけじゃないよ」
「……」
「ま、いっか。毎日一緒だもんね」
膝に乗せた学生鞄を一旦抱え直した相手は、小さく息をこぼしてから学校のことを話し始めた。
「あ、もう駅だ」
一回乗継をしたのちに程なくして電車が駅にとまる。開いたドアに向かっていく彼女の姿を見て何か引っかかったような気がして、一瞬足を止めるも袖を引っ張られそのままホームへ足を進めた。
「立花君って結構ぼーっとしてるよね」
さっき足を止めたことに対してだろう。
「……それなりに言われる」
「それなのに色々と鋭いし」
不思議だよ、と言いながら彼女は鞄の中からパスケースを取り出すので、俺もジャケットのポケットから定期を出す。改札を通り抜ければそこが分かれ道。
「それじゃ」
ひらひらと手を振るのには頷きを返して、それぞれ北口と南口に足先を向けた。あの子のこと、電車にいる時以外で知ってる気がするんだけど、一体どこで見かけたんだろう。まぁいいか。
「おーい立花」
教室について教科書や筆記用具の準備をしているところに、腕を捲ってネクタイをだらしなく緩めた森崎君が歩いてくる。特に面倒で返事をしないでいるとそのまま前の席の椅子を引いて腰掛けた。
「最近朝に明蔵の女子と登校してるって噂聴いたんだけど」
「……誰から」
「俺は脇田からだけど、お前割と学年で有名人だしたぶんいろんなところに回ってるぜ」
おそらく同学年だろう名前を言われても名前と顔が一致しない。とりあえず俺の知らないやつみたいだ。まぁ名前と顔が一致するの何てごく一部だけど。興味ないし。
「へぇ」
「で、カノジョ?」
「そう」
「あー、やっぱりかよくっそこんなバンダナマスク野郎にカノジョできんのに何で俺には出来ないんだ顔か顔なのか! いや顔は隠してるから違うな……バンダナの柄か!」
両手で拳を握って森崎君は天井にがなる。森崎お前バンダナ馬鹿にしてんのか!、と教室の端からバンダナを頭に巻いたクラスメイトが叫んできたけど正直どうでもいい。
「……なーんちゃって」
「てめっ、ふっざけんなー!」
顔を両手で覆って天井を仰いでいた森崎君が俺のジャケットの襟に手を伸ばしてきたからとりあえず避けておく。それにしてもいつも引っかかるし相変わらずの反応をする森崎君って単純だ。わかりやすい。
帰り道、改札を抜けてホームへの階段に向かっていたところで肩が叩かれる。
「偶然だね」
振り向けば千佳がいてすこし汗をかいていた。確かに九月も下旬で夏の盛りは過ぎたって言うのに、今日はやけに暑い日だった。彼女はぱたぱたと胸元を扇いで衣服の中に風を送っている。
「全然暑そうじゃないけど、暑くないの?」
「暑いよ」
「黒いジャケット羽織って汗かいてないとか、それ説得力ないよ」
くすくすと笑われながら階段を昇って行く。隣で歩く女の子の襟がひらりひらりと揺れて、そこでようやく気が付いた。いつの間にか香辛料の香りが薄くなっていることに。
そうか、あの時気が付かなかったのは俺が香辛料の組み合わせで覚えていたからだ。じゃあ、どうしてそれが薄くなったんだろう。初めて見かけた時はあんなにはっきりと香っていたのに。
「……あ、あの、立花君?」
戸惑う声が聴こえてきて視線を下ろしてみれば、やけに近いところに千佳がいた。
「……、……ちょっと、スパイスの香りが気になって」
無意識に肩に置いていた手を離せばほっとした表情。強張っていたのは彼女だけじゃなくて、周りの人間もそうみたいで気配が緩んだのがわかる。というかいつの間にホームに並んでたんだ俺。香りに意識を集中させるとちょっと意識持ってかれるな。気を付けよう。
「そっか、そのトランクに香辛料たくさん入ってるんだもんね」
それなら仕方ないか、と相手は一人合点がいったように頷いた。なんで仕方がないのか、その理由を話す気はないみたいだけど、別に訊く必要もないか。
「そうそう、そういえば」
ぽん、と両手が叩かれて話題が変わった。
「この間、食専のサイトに行って学生レストランっていうのがあるって知ったんだけど、もしかして立花君もそこでメニュー考案したことあったりしたの?」
「あれは二年の内部実習から」
「そっかー。わたし、立花君のカレー食べてみたいって思ってたから機会あるかな?」
「あるんじゃない?」
「ならよかった」
にこにこと何が楽しいのか千佳はいつも笑ってる。
「
ち……春樹さんって」
思わず内心で呼んでいる呼び方で話しかけそうになって言い直した。どうもこの苗字は、何でか言い辛い。物理的にとかじゃなくて、口に出そうとするとどこかで何かが引っかかる。
「なんでいつもそんな笑顔なの?」
「……そんなに笑顔?」
「うん。わりと」
「辛いときほど笑っていなさいっていうのがうちの家訓なんだ。ちゃんと笑ってるように見えるなら良かった」
辛くても笑っていなさいなんて、そんな酷いことを言われているにも関わらず彼女はそれが正しいことだと思って笑う。
「あ、でも最初は親が言ったことだけど、わたし自身納得してるからね」
「……」
「例えば悲しいことはある時事故みたいに降ってくるんだから、ずっと悲惨な表情をしてたって仕方ないもん。だったら私は笑うよ」
強張る音で発せられる彼女の言葉に嘘はない。だからきっと、事故みたいにな回避出来たかもしれないけど回避出来なかった“悲しい出来事”があったんだ。それでも笑うことを選択した。愚かだと思った。
「ま、こんなこと端に置いておこうよ」
荷物を退かすジェスチャで話を流すことを提案されて、これ以上長引かせる意味も見当たらなかったから頷いておく。何だかわからないことが深まったような気がするけど、それも同じようにどこかに置いておこう。
一緒にいることが苦痛かと言われたら、そういうわけでもないんだから。